その夜、大分市鶴崎駅近くの古びたホテルの4階角部屋に宿泊したのは、都内から来た女性、佳奈子だった。ビジネスでの滞在だったが、友人たちの間で囁かれる「4階の角部屋の怪異」を聞き、その恐怖を確かめようとしたのだ。
部屋に入ると、どこか重苦しい空気が漂っていた。薄暗い蛍光灯の明かりが、かすかに揺れている。壁には古びた鏡があり、その鏡越しに自分の姿が妙にぼやけて映っていた。だが、佳奈子は気に留めることなく荷物を置き、リラックスしようとした。
その時、時計の針は夜の10時を指していた。最初のノックが、重々しく響く。
「コン、コン…」
佳奈子は廊下に出てみたが、誰もいない。しかし、異様な寒気が肌にまとわりつき、心臓が早鐘を打つように脈打った。急いで部屋に戻り、今度はドアの覗き窓から廊下を確認することにした。が、その時には何も起きず、ただ静寂が包み込んでいるだけだった。
再び部屋に戻り、少し落ち着きを取り戻そうとしたその瞬間——
二度目のノックが響き渡った。
「コン、コン…」
廊下に出るか迷ったが、好奇心が勝ち、ドアを開けてまた外に出た。だが、誰もいない廊下がただ続いているだけだった。焦りと恐怖で冷や汗が流れ、急いで部屋に戻ると、突然、浴室の鏡に目が止まった。鏡には、体全体に包帯を巻いた禍々しい女性が鬼の形相で睨みつけているではないか。佳奈子の足は動かず、恐怖で凍りついたが、頭の中に何度も聞こえる声があった。
「リリー去れ、リリー去れ、リリー去れ…」
佳奈子は恐る恐る声に従い、震える声で呪文のように唱えた。すると、包帯の女性はゆっくりと消え去り、静寂が戻った。
息を整えようとした瞬間、彼女は一つの古い噂を思い出した。このホテルが建つ前、ここには学校があった。その冬の日、教師のリリコが火事の中で生徒を救おうとし、4階の教室の鏡の前で焼け死んだ。そして、リリコは絶命する前に禁断の儀式を行ったという。その儀式で「コトリバコ」に少女の魂を封じ込めたと噂されている。
不意に三度目のノックが部屋に響き渡った。
「コン、コン…」
廊下に出ることは禁じられている。そう聞いていた佳奈子は、恐怖に怯えながらも動けなかった。しかし、その時、夢の中に現れる幻のような光景が浮かび上がった。それは、かつての学校であり、煙に包まれた中で少女を救おうとするリリコの姿だった。
リリコは火事の中、救えなかった少女と共に焼け落ちる運命にあった。だが、彼女が絶命する前、教室の片隅にあった古びた鏡に目が留まる。鏡には、かつてこの土地で密かに行われていた「魂の封印」の儀式に関する伝承が刻まれていることを彼女は知っていた。ある噂では、その鏡が異界と繋がり、呪物「コトリバコ」を介して魂を封じ込め、地上に留める力を持っているとされていた。
リリコは幼い頃から「他者の魂を預かる」特異な力を持っていた。しかし、その力は呪われたものであり、魂を預かるごとに自身が少しずつ“異界”に引き込まれていくことを知っていた。彼女はその力を持つが故に人との絆を避けていたが、少女の純粋な魂に触れたことで、救いを求めずにはいられなかった。そして、自分が異界に引き込まれる代わりに、少女の魂が穢されないように「コトリバコ」に封印したのだ。
しかし、その儀式は不完全だった。リリコの想いとは裏腹に、封じられた少女の魂は呪いの力に取り憑かれ、地上に残されたままだった。リリコが封じ込めようとしたのは少女を救うためであり、同時に自らの呪われた力と決別するための“異界への鍵”でもあった。
夢の中で、佳奈子はリリコに向かって「呪いを解き、少女を救うために来た」と告げた。リリコは悲しげに微笑み、消えていった。そして、少女の囚われた魂が光と共に解放された瞬間、佳奈子の体は冷たくなり、足元からゆっくりと消え始めた。
彼女は、自らが新たな生贄になることを受け入れたのだ。
その後、4階角部屋にまつわる怪異は消え、誰もが安心して泊まれるようになった。しかし、夜の10時に誰もいない廊下でかすかに聞こえる声があるという。
「リリー去れ、リリー去れ…」